小田原城の歴史

昨年3月7日

 

小田原城の歴史

 

小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の県立小田原高等学校付近の高台(八幡山)に築いた山城でした。

城の規模や築城年は明らかになっていませんが、15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。
15世紀末、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。

小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総そうがまえ構の出現に至ってその規模は最大に達しました。

 

 

しかし、天正18年(1590)、石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。
 

 

北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。

その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。
貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。

 

 

小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年までに城内の多くの建物は解体されました。

後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年には、二の丸に御用邸が建てられました。

 

 

しかし、大正12年(1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまいました。
その後、昭和9年(1934)に隅櫓が再建され、昭和35年(1960)5月には廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣が復興されました。続いて昭和46年(1971)3月に常盤木門が、平成9年10月に銅門、平成21年3月には馬出門が完成しました。

 

 

小田原城は、昭和13年(1938)8月に二の丸・三の丸の一部が、昭和34年(1959)5月に本丸と二の丸の残り全部が国の史跡に指定されています。

                    (小田原市役所HPより)

 

11時09分 お腹が空いてきました。

そろそろお昼ご飯に行きましょうか。

学橋を渡って市街地に出ます。

 

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小田原城 二の丸隅櫓

昨年3月7日

 

二の丸隅櫓

 

 

よく読めないので「小田原城をゆく」より引用しました。

 

江戸時代の小田原城には、様々な大きさの櫓が、お城のあちらこちらに築かれていました。
この隅櫓は、城主の居館(御殿)があった二の丸主部の南東の隅に位置し、堀をはさんだ向こう側、三の丸にあった大手門の真後ろを見渡せる。
櫓の内部には武器が格納され、有事の際にはここから城下を展望し、敵が攻めてきた場合には矢や鉄砲を放つ様になっていた。
明治3年(1870)、の小田原城廃城により、天主閣を始めとするお城の建物は、ほとんどが破却され、二の丸隅櫓だけが唯一残存していた。
しかし、大正12年(1923)の関東大震災により堀の中に石垣ごと崩落してしまった。
現在の建物は、昭和9年(1934)6月に復興されたもので、江戸時代のものと比較して一回り小さいという。

                    (小田原城をゆくより)

 

            (小田原城をゆくより)

 

桜と隅櫓

     (小田原城街歩きガイドより)

 

江戸時代の小田原城は二重櫓が五棟、平櫓が一棟があったそうです。

延宝元年(1673)もしくはその翌年に土蔵として建てられるも元禄16年(1703)の地震により倒壊、鍵の手状の平櫓として再建されたそうです。

 

 

       古い写真ではもっと石垣が高いです。(バスのブログより)

 

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小田原城 二の丸御殿跡

昨年3月7日

 

二の丸御殿跡

 

 

国指定史跡小田原城跡

 

   二 の 丸 御 殿 跡

                 指定 昭和13年8月8日

                    昭和34年5月29日

                    昭和52年5月4日

 

 江戸時代の小田原城には、将軍の旅宿専用の「本丸御殿」と、

藩主の居館や行政を行う政庁としての役割をもった「二の丸御殿」

の二つの御殿がありました。

 「二の丸御殿」は、三代将軍家光が上洛のおり小田原城に止宿

した寛永年間(1624〜44)の頃が最も壮麗で、能舞台や唐門も備え

た立派なものでした。しかし、元禄16年(1703)に起きた大地震に

より小田原城は甚大な被害を受け、「二の丸御殿」も倒壊し炎上

してしまいました。その後再建され、徐々に増築されたものの、

以前の姿には到底及ばないものでした。

 平成9・10年には、この「二の丸御殿」で試掘調査が行われ、

元禄の大地震で真赤に焼けた土と前期の御殿の礎石や屋根に葺か

れたいた瓦などが出土しました。また、後期の御殿は前期の焼け

跡を一旦埋め立てて新たに建てられたこともわかりました。

 

                    小田原市教育委員会

 

 

よく見ますと台所、料理之間、対面所、舞台、玄関、小姓部屋、馬屋、唐門があります。

 

 

本丸・二の丸の縄張と二の丸御殿の位置

 

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「日本ミツバチ」の巣

昨年3月7日

 

一向に雨は止みそうにもありません。

 

 

櫻並木ですか。

4月には見事に咲くことでしょうね。

ひと月早かったですね。

 

 

     お 願 い

 

桜の木の洞(うろ)に、日本古来種の

「日本ミツバチ」の巣が出来ています。

刺激を与えなければ被害はありませんので

近寄らないで下さい。

          小田原城址公園

 

 

桜の木の洞はどこにあるのでしょうか。

探したのですが見つかりませんでした。

 

 

at 03:05, blogokmy, 熱海旅行

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小田原城 歴史見聞館

昨年3月7日

 

小田原歴史見聞館正面玄関

 

 

入場券売場

 

 

さてこれからどこへ行きますか。

 

 

奥ちゃんはどこへ行ったのでしょうか。

 

 

ここにいました。

北条早雲が馬に乗って勇ましいですね。

 

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小田原城 歴史見聞館に

昨年3月7日

 

大手筋登城順路

 

  銅   門

← 歴史見聞館

  報徳二宮神社

 

 

ここは海抜12.1mです

 

 

ヒマヤラスギが聳えています。

 

 

この白い建物が歴史見聞館ですか。

 

 

相変わらず雨は降り続いています。

 

 

奥ちゃんはもう着いています。

レンタサイクルがあるようです。

 

at 03:07, blogokmy, 熱海旅行

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小田原城 学橋

昨年3月7日

 

小田原城案内図

 

 

小田原城天守閣は耐震改修工事の

ため左記の期間休館いたします

 

期間 平成27年7月1日〜平成28年4月下旬

 

なお、小田原城歴史見聞館・遊園地などその他の城址

公園内施設は期間中も通常通り営業しております。

 

 

雨の中、橋を渡ります。

 

 

学橋

 

 

お堀の向こうには隅櫓が見えます。

 

 

その先に馬出門土橋が見えます。

 

at 04:10, blogokmy, 熱海旅行

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小田原城 二の丸東掘

昨年3月7日

 

10時48分 小田原城のお掘りに着きました。

 

 

  二 の 丸 東 堀

 

 

国指定史跡小田原城跡

 

  二 の 丸 東 堀

 

                  指定 昭和13年8月8日

 

 小田原城は、江戸幕府の三代将軍家光の乳母、春日局の子稲葉正勝

が寛永9年(1632)城主になると、大規模な工事が行われ、石垣を備え

る近世城郭として整備されました。

 二の丸東堀は、本丸・二の丸を守る堀の中でもっとも大きなもので、

幅は最大で約40mあり、現在よりもさらに北に約60m先まで続い

ていました。また、西は常盤木橋、南は、南曲輪の前までつながってい

ました。

 現在の石垣は、大正12年(1923)の関東大震災で崩れたものを昭和

初期に復旧したものですが、右の写真のとおり、江戸時代の石垣は今

のものよりも高く、二の丸の石垣として威厳のある姿を見せていまし

た。

 なお、震災直後、一時この堀を埋め立てる計画がありましたが、小

田原保勝会が中心となって保存運動を起し、その結果二の丸東堀は、

今日までその姿を残すことができました。

 

                    小田原市教育委員会  

 

 

      文久図(江戸時代末期)

 

 

    明治36年頃の二の丸東堀

  (絵葉書「相州名所 小田原城址 御用邸」)

 

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小田原の街を

昨年3月7日

 

10時41分 小田原の駅から駅前の商店街に出ました。

 

 

小田原城へは直進と出ています。

 

 

万葉の湯

 

 

万葉の湯

 

小田原お堀端

 

 

雨の中傘を差して歩きます。

 

 

小田原城(正面入口)↑ 220m

 

 

向こうの方に木々がこんもりとした処が見えます。

これが小田原城なのでしょうか。

 

 

at 03:09, blogokmy, 熱海旅行

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小田原駅へ

昨年3月7日

 

熱海駅から小田原駅に向かいます。

 

 

東海道線10時10分熱海発の電車に乗ります。

 

 

電車は空いています。

 

 

乗っているお客さんはわずかです。

 

 

10時34分小田原駅に着きました。

 

 

小田原提灯

 

小田原提灯(おだわらちょうちん)は、提灯の一種。
童謡「お猿のかごや」に登場する。

 

東海道の宿場町であった小田原(後の神奈川県小田原市)では、旅人が携帯するのに便利なようにと、同地在住の職人・甚左衛門が、畳んだ時に胴の部分が蓋に収まるように作ったのが最初といわれる。
このような小田原発祥の提灯であるが、2015年5月時点で小田原市内には提灯屋自体が山崎提灯店と飯沼提灯店(飯沼商店)の2店舗しかなく、外的に小田原提灯の作製をうたっているのは前者のみである。
収入を得られるほどの十分な需要がないので後継者は難しいことを職人が語っており、前途が危ぶまれている。

 

以下の特徴ゆえに、江戸時代に大人気商品となった。
●同じ直径のリング状中骨による蛇腹形状を持ち、折りたたんでの携帯がしやすかった。
●通常の提灯と異なり中骨が平たく、紙との糊代面積が大きいために剥がれにくく、雨や霧に強い。
●作業工程が簡単なため、安価であった。
●大雄山最乗寺の神木を一部材料に使い、狐狸妖怪に対して魔除けになると宣伝した。
                    (Wikipediaより)

 

小田原提灯

江戸時代の中頃、提灯職人の甚左衛門(じんざえもん)が考え出したと言われ、携帯に便利なように小さく折りたためる、中骨が平たいため胴紙が剥がれにくく丈夫で、雨や霧にも強いといった特長があります。

 

小田原提灯の歴史と沿革

明治時代から続く山崎提灯店は、かつて大雄山最乗寺への参詣道として栄えた場所にあり、現在も小田原提灯の継承に貢献しています。
広く一般的な提灯は1085年に書かれた書物に出ていることから、古くから照明器具として使われていたようです。
小田原提灯は、江戸時代中ごろ、小田原の甚左衛門という人が箱根越えの旅人のために考案して売ったものが起源。
山崎提灯店では、この小田原提灯をはじめ様々な提灯をすべて手作業で製作しています。
その技術は現在4代目が継ぎ、5代目の長男も共に日々研鑽に努めています。
ここで数十年前に作られた提灯も現存し、実用されており、時代を越えて変わらない本物の風格と質の高さを実感できます。

 

小田原提灯

小田原提灯

上下の蓋が大雄山最乗寺の霊木で作られているので、道中の魔除けになるといわれています。
また折りたたむと懐中に入るので懐提灯ともいわれ、携帯に便利。
本体の胴部蛇腹部分に使われている竹ひごが四角形に削られているので糊付け面が多く、雨や霧にあたっても剥げにくく丈夫。
これら三つの特長は「三得」と言われています。

 

弓張提灯

弓張提灯

手で持つ部分が弓に似ていることからこの名が付いています。
時代劇でよく御用堤燈として登場しています。
また、お祭りに参加される若衆が手に持っているのもこの弓張提灯です。
家紋・家名を入れて送り提灯や迎え提灯として使用するなど様々な用途があり、現在は玄関に飾ったり、贈答用としても使用されています。

 

桶提灯

桶提灯

お祭りの催される神社の神殿の脇等に吊るされ,彩りを添えます。

 

ミニ提灯 

ミニ提灯

実用サイズより小さい提灯。
結婚式披露宴などの席札などに人気です。
                  (小田原市地場産業振興協議会より)

 

at 04:08, blogokmy, 熱海旅行

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